クリスマス尽くし

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もうすぐクリスマスがやってきます。恋人とのデートや我が子や孫へプレゼントを選ぶわくわく感とは無縁でも、楽しみになるのですからクリスマスパワー恐るべし。

大多数の日本人はクリスチャンでもないのに、どうしてこうも毎年この時期はクリスマス一色になるのでしょうか?

先ず浮かぶのは、戦後のアメリカという国への憧れではないでしょうか。さすがに1ドル360円に固定されていた頃のことは知りませんが、昭和の後半から平成の時代には、いつもアメリカが見上げる空のような存在としてありました。すくなくとも私の中では、世界の中心にアメリカがあるような感覚でした。広い国土の広い家に住む陽気な人々が、映画やテレビの中にあふれていたように思います。

その後日本もバブル期といわれる頃となり、クリスマスといえばシィティホテルでディナーだ、ブランド物のプレゼントだというような浮かれた時代がありました。

むしろその頃の方が、日本人のクリスマスの過ごし方のおかしさを、世間で話題にしていたように思います。本来のクリスマスは、自宅で家族と過ごすのが一般的で、クリスチャンとして教会へ赴きクリスマスミサで神の生誕を祝うというようなことがいわれていました。

それが耳に残っていたのか、近頃私はクリスマスに教会へいくようになりました。一年に一度、信者の人たちに混じって礼拝に出席し、賛美歌を賛美して牧師様の説教をいただきます。

聖書の一文に、いつまでそんなにこだわっているのだという気持ちはわきはするものの、ユダヤ・エルサレム・イスラエルといったワードが、昨今の世界情勢からか聞き流すことができませんでした。細かな意図は私には理解できなかったのですが、目の前の神父様もクリスマスは神の生誕を祝う日と誤解している人が多いが、本当はひれ伏して幼子を拝む日なのだと言われました。そして聖書には、東の方からエルサレムに来た占星術の学者たちは幼子を拝んだ後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行ったとあり、この「別の道」によってひらかれたことに、このクリスマスに思いを馳せましょうとも言われました。

私たちの生まれる遙か前に書かれた書物に書かれたことに、まるでとらわれているような人々をどうしても理解できずに私はいますが、聖職者でさえその内容に持論をお持ちなのだと驚きました。これでは争いはいつまで経っても解決しないし、相容れるのは容易ではないとつくづく感じました。

教会から一歩でても、12月の街はクリスマス尽くし。「喜びのクリスマス」という祝福の言葉があるそうですが、紛争地の人たちも同じ喜びに満たされますように。

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